「多くの人が馬と触れ合えるようになるように」障害馬術・広田龍馬、広田思乃
二人が知り合ったとき、夫はすでにトップ選手。妻は彼の指導を受け、昨年初めて日本一に輝いた。今、夫は妻のサポートを受け、夢に向かって邁進する。(雑誌『ターザン』の人気連載「Here Comes Tarzan」、No.774より全文掲載)
取材・文/鈴木一朗 撮影/中西祐介
(初出『Tarzan』No.774・2019年10月10日発売)
父親が切り拓いたクラブと乗馬への道。
「馬術は18歳からシニアの大会に出られるんですけど、70歳の法華津寛さんが日本代表になれるスポーツなんです。そして、男子も女子も一緒に競技を行い、順位を決める。年齢、性別がこれほどノーハンデの種目はない。しかも、人間以外の生き物と行うのもこれだけです。
今はモータリゼーションに代わられましたが、それまでは馬と人間の関係は濃かった。馬術は今では貴族の遊びみたいなイメージがありますが、人間が長い年月パートナーとして馬と歩んできて、結果としてこの競技が生まれたというのを、まずは知ってもらいたいです」
こう語るのは広田龍馬だ。彼は2000年のシドニー・オリンピックの障害馬術に出場し、来年の東京オリンピックで20年ぶりの代表を目指している。76年生まれの43歳。
妻の思乃も障害馬術の選手。昨年の全日本障害馬術大会では女性としては3人目の優勝を飾り、24年、パリのオリンピアンを狙っている。
二人は自身が経営する乗馬クラブ、那須トレーニングファームで日々を送っているのだが、このクラブを語るときに絶対に外せないのが、龍馬の父、故・広田健司氏の存在だ。
「父は大学で馬術を始めて、国体でも優勝しました。ところが、世界へと進むことはできなかった。国体までは県から馬を借りて出場できるけど、海外では自分の馬が必要だったからです。父はサラリーマンの子供でしたから、そんな資金はなかった。それで、自分より実績のない選手がオリンピックに出て、悔しい思いをしたんですね」
ならば、脱サラして乗馬クラブを作り、自分の夢を子供に託そうと考えた。そこからが、まったくとんでもない話になるのだ。日本中を巡って、栃木県那須塩原市寺子に理想の土地を見つける。といっても、そこは手付かずの原野である。それを、たった一人で開拓していったのだ。
「僕が子供の頃、父がビニルテープを張って、森を仕切っていくんです。ここがクラブハウスになって、ここが馬場だ、なんて言って。ただ木が生えているだけだから、僕なんかまったく理解できないわけです。何言ってんだ、この人っていう感じ」
そして、2万4,000坪という土地をたった一人で切り開いた。龍馬には2人の兄妹がいたが、さっさと父親から逃げ出した。それで、ターゲットになったのが、彼だったというわけなのだ。「ただ、高校生までは、イヤでイヤでたまらなかったですけどね」と、龍馬は振り返る。
退院したときに私を受け入れてくれたのは馬。
一方、思乃は幼い頃から病気がちで、スポーツができずにいた。ところが、高校に進学するときに見た、一枚の馬の写真が彼女を変える。
「写真を見たときに、馬なら乗ってもいいんじゃないかと勝手に思って、乗馬部に入りました。毎日、馬の世話で楽しかったのですが、半年ぐらい経って病気で入院することになってしまった。友達もまだできていなくて、退院したときに私を受け入れてくれたのが馬たちだったんです」
ずっと馬と共に生きていこうと決意した。そして、高校2年生のときに那須トレーニングファームを訪れる。思乃の高校のコーチが、父・健司氏の教え子で、夏は那須で合宿を行っていたのである。当時の思乃を思い出して、龍馬は言う。
「他の子よりも遅れているんです。スタートに半年のハンデがあるから。鞍数(馬に乗った回数)もはるかに少ない。ただ、必死さが違うんです。父は感情移入能力と言っていましたけど、馬に自分のココロを託して、馬の気持ちと一緒になる力がすごく強かった。だから、初めからこの子はモノが違うなと思っていました」
それで贔屓したんです、と龍馬は笑う。そして、それが功を奏したか、思乃は高校3年のとき、龍馬の調教した馬で秋田県民として初めて国体の馬術競技で優勝を果たす。「短い期間でここまでできるのなら、これからも面倒見なくては」。健司氏も龍馬も思ったという。
ちなみに、このときすでに龍馬はシドニーに出場を果たしており、日本でトップの選手だった。思乃は大学へ行くことも、馬術を続けることも考えていなかったが、ファームに住み、近くの大学に通うようになった。そして、思乃は龍馬に身近で接するようになり、驚いたことがあった。
「馬の性格とか、その馬がどういう動きをするのかが、一瞬でわかるんです。私は高校生からなので、なかなか難しい。これは最近ですが、競走馬から上がってきた馬(競走馬を引退した馬術用の馬、競“技”馬になること)がいたのですが、すぐに障害を跳んでいましたから」
競走馬はスピードを出して走ることを、競技馬は演技することを求められる。一口に馬といっても、まったく別物なのだ。だから、速く走ることを身上にしてきた馬で、すぐに障害を跳べるというのは、驚嘆すべきことなのである。だが、龍馬にとっては、これは当たり前なのだ。
「僕は今まで1万頭近い馬に乗せてもらっています。短い期間だけ調教したり、売られていったり、死んだりしてしまって、今残っているのは40頭ちょっとです。
だけども、過去にいなくなった馬の命や感覚というのは、僕の中に永遠に生き続けている。だから、初めて乗った馬のことも、考えることなく何となくわかるんです。
僕の背中にはこれまで接してきた馬がいるのを感じるから、まったく怖さはない。馬にもそれがわかるから、自然とココロを合わせることができると思っているんですよ」
面白いエピソードがある。ある国際大会で思乃が初めて自分の思った通りの演技ができ、満点を獲得した。その前までの選手に満点はいなかった。大きな大会で初優勝できるかもしれない、と思った。次の出番は龍馬だ。
「すれ違ったときに“本当によかったよ”って言うんです。でも、入場するときから全力で走って、そのままパーンって障害を跳んで、すごいスピードで戻ってきて優勝しちゃったんです。もうポカーンって感じで、結局、私は2位だったんですよ」
「いや、お互い高め合うことは大切なんです」と、龍馬は苦い顔。確かにそうだが、何か大人げない……。
馬と触れ合うと、気分がよくなる。
広田夫妻には、実は選手として活躍する他に、やり続けていきたいと思っていることがある。というより、競技よりもこちらを重要だと考えているようだ。それが、いわゆるホースセラピーである。乗馬スポーツ少年団を立ち上げ、馬を通した教育のすばらしさを知ってもらうよう、さまざまな努力をしてきた。
その結果、活動拠点の那須塩原市では、全国で初めて小学校で“馬の授業”が取り入れられるようになったのだ。また、市営のホースガーデンの業務委託事業者として、これまで2万人以上の子供たちに、馬と触れ合えるような機会を作ってきた。思乃は馬との生活を振り返りながら言う。
「高校時代、体調が悪くなったとき、馬と触れ合うと気分がよくなった。馬は体温が高く、人を癒やす力があるんじゃないかなと思いました。福祉大に行ったのは、子供の福祉施設で働きたかったからで、実際にボランティアで勉強を教えたことがあるんです。そのとき、いろんな悩みを抱えている子が大勢いて、馬に乗せたら少しは悩みが軽くなるかもと考えていたんですよ」
実際にたくさんの子供たちが馬と過ごすときに、指導を行ってきた龍馬も大きな手ごたえを感じている。
「今の子供たちはコミュニケーションを取るのが下手。でも、学校では点数の取り方しか教えてくれません。馬は、いきなり触ったらケガをしますよ。ただ、一緒にいれば、相互に理解するというのはどういうことか、馬のほうから伝えてくれる。
現実に、登校拒否になった子が、馬と触れ合うことで、人と繫がることの大切さを再び思い出し、学校に通うようになったこともあるんですから」
夫婦の共通するテーマは、ホースセラピーを全国に広めること。ただ、そのために必要なのが「シビアな話ですが、お金なんですよ」と、龍馬。
「現実問題として馬にはお金がかかります。国とかの公のお金を入れてもらえば、多くの子を救えると思うんです。そのためには、オリンピックでメダルを獲ることが重要。出場だけなら僕はもうしていますからね。メダルを獲ることで初めて全国区になれ、さまざまな協力を仰げるんです。これまで授業でもアンケートをたくさん取ったのですが、苦しんでいる子供たちは本当に多いんです」
思乃は今年4月にスウェーデンのイエーテボリで開催されたワールドカップで、日本人女子として初めて決勝に進出した。しかし、まだ自分はオリンピックでは、メダルは獲れないと思っている。だから龍馬の東京での活躍を願っているのである。
「私はライフ・イズ・ビューティフルという馬でワールドカップに出場したのですが、この馬でなくては決勝には残れなかったんです。まだまだ力は足りないから、今はサポートしていきたい。那須塩原市営のホースガーデンは、とても人気があって、今は3か月待ちという状態です。
馬に乗りたいと思っている人が、こんなに多いとは驚いています。子供たちも馬に対して、最初はこわごわなんですが、うれしそうな表情に変わる。それに、親子でいらっしゃったら、馬がコミュニケーションツールにもなってくれる。多くの人が馬と触れ合えるようになるよう、龍馬さんにはメダルを獲ってほしいです」