2017年、韓国のトレイルを走っている最中に、それまではまったく症状のなかった股関節に痛みを発症する。帰国後に診察を受けると、臼蓋形成不全、変形股関節炎と診断された。股関節は、大腿骨の骨頭とそれを受ける骨盤の臼蓋で構成されるが、石川弘樹は、受け皿である臼蓋が生まれつき浅い。
骨頭が不安定な状態で長年走っていたために軟骨をすり減らし、筋肉や神経が複雑に重なり合う鼠蹊部に痛みを発症し、走れなくなってしまった。
「病院でも、あらゆる治療院に行っても、とにかく負荷をかけないように言われて、するとどんどん全身の筋肉が落ちていきますよね。『もう何やってるんだろう?』って、半分鬱みたいな状況でした。次第に『もうどうでもいいや』みたいな気分になっていたかもしれない。それでもレース会場に行かなきゃいけない。プロデュースしているレースは、自分が走りたいレースを作っているわけです。走ることができていた時には自分は違うところで楽しい思いもしているから、『みなさん、楽しんでね』って思えていたのに、何かもう、現場にいるのが苦痛でしかない。もちろん選手の走っている笑顔を見たり楽しかったって言葉をかけてもらったりしたら、携わっていて良かったと思うんです。でも、当時は心からは思えなかった。自分が走れていた時には仕事も生活もすべてにおいて本当に楽しんでいたのに、何にも面白くないです。何にも面白くない」
一人でいればため息しか出てこず、仲間と一緒にいても、もぬけの殻。走れない石川弘樹は、「本当に空っぽ」だった。トレイルランニングにまったく触れない仕事を探して、人生を一変させようかと考えたりもしたという。ランナーを見たり、大会について耳にしたりすることさえ嫌になる。そう思ってしまう自分にも苛立ちを感じていた。
「幼い頃からずっと、自分の規律を正していたのはランニングなんです。記憶の中では、小学1年生のマラソン大会で、ビリから2番目くらいを走っている。それぐらいぽっちゃりしてて、頼りなかったんですね。2年生からサッカーを始めて、最初はみんなでワイワイするのが楽しかっただけだから、試合に出るのも嫌で、メンバーから外されたら心の中でガッツポーズをするくらい。でも、3年生になって試合で点を決めて、目覚めたんです。チームメイトに負けたくないとか、走ることを負けたくないって。唯一、秀でたものがあるとしたら、走ることだったから。もしも走りで順位が下がったら、『お前、さぼっているのか』と言われてしまう。だから小中高大まで、とにかく走ることだけはずっと一番だった。大学に入ってサッカーの試合には出られなくても、走ることだけは負けないように考えていたから。音楽が好きだったから、学生時代はクラブでバイトしてたんですね。タバコの煙にまみれて、朝まで働いて、めちゃくちゃな生活していたのに、走ることを維持しなきゃいけないから、2日に1回はしっかり走る練習をしていました。だからアドベンチャーレースにポンッと入って山を走っても、走れたんです。思い悩んだ時期があっても、走れば、自分がリセットされていたのに」
日常生活にも支障が出るほどの痛みがあり、椅子に座ることさえ難しかった。どうにか靴を履いても、靴紐が結べない。痛み止めはすぐに効かなくなり、夜も眠れない日々が続く。それでも再び走れる体を取り戻すために、石川は再生医療に可能性を見出して、3ヶ月間の入院をする。幹細胞注射を1ヶ月に一度打ち、それ以外の時間はひたすらリハビリに当てる。
時間がかかることは覚悟していたが、レントゲンにうっすらと効果が映ると言われていた3ヶ月後にも、ほとんど変化は見られなかった。失意の最中、「手術をしたらもう走れなくなって、終わり」と思っていた人工股関節でトレイルを走っているランナーを紹介された。すぐに連絡を取って、手術の詳細、術後のリハビリなど話を聞かせてもらった。
「それで可能性を信じることにしたんです。手術する病院を探し始めたんですね。検索すると一番上に出てくるような有名な病院に行ったら、身体も触らないし、『リハビリに関しては、あなたの方がプロでしょう?』みたいに言われて、それは厳しいなと。いくつか病院を回る中で、手術の前後にリハビリ指導があって、『また走れるようになりますよ。楽しみにしていてください』と言ってくれる先生に出会えたんです。僕にとっては初めて自分の身体にメスを入れるわけですから。筋肉を切られるわけで、その怖さはあったけど、もう先生を信じるしかないから」
石川の担当医は失敗のリスクを避けるため後方アプローチを選んだ。手術時間は両足で3時間半ほど。全身麻酔をしていたのに、ガタガタと震えるほど寒くて目が覚めるとまだオペ室で、もう一度スッと眠りに落ち、再び目を開けたら病室だった。
「自分の中にエラいものが入った感じがあると想像していたのに、実際には人工股関節が入っている感覚ってほとんどなかったんです。ほぼゼロに近い。要は骨盤の中にカップを入れて、大腿骨に金属のステムを刺すわけです。手術の仕方もわかっているから、ベッドから起き上がる時も大丈夫かなって思ったけど、病院では翌日からリハビリで歩かされるんですね。初日から歩行器を使って20〜30メートル歩いたかな。力が入らないような感覚はあったので、これが手術をした後なのかと。ただ、筋肉を切っているから、その傷の周りの強張りはあった。怖かったのは、術後に無理をしたり動きすぎたりして、人工股関節がズレてしまうこと。事前に話を伺ったトレイルランナーの方は、一度ステムが沈んでしまって、再手術をしたそうです。だから『より慎重にリハビリしなきゃいけないな、1年かけてもいい』くらいに思っていたんですね。とにかくのんびりやろうと。いろんなリハビリメニューをもらったけど、その半分くらいのノリでやってました。じっくり自分の身体に馴染ませようと思って、リハビリは全然焦らなかったです」
退院直後は、かつて脳梗塞で倒れた父のためにバリアフリーにしてあった実家で療養生活を送った。自宅に戻ってからは週に一度の通院だけでなく、伝手を辿って知り合った介護施設に勤める理学療法士のもとで週に2回のリハビリを始める。
以前は人工股関節の病院に勤めていた理学療法士は、トレイルランナーでもあり、石川の気持ちに寄り添ってくれた。「そろそろトレイルに立ってみますか?」と言われたのは、2022年10月に手術を行ってから半年後の春だった。
「手術直後は信号が青に変わって、赤になる前に渡り切れないんです。杖を突きながら歩いて、ああ、自分はそういう身体なんだって。でも、今までは痛くてできなかった動きが、ゆっくりであってもできるから、これならまた動けるだろうなと思えたし、動けなくても痛みがないだけで、本当に幸せでしたね」
幸せ。どん底まで落ちていた精神状態も、手術後には少しずつ回復していく。青信号を渡りきれなかった石川は、現在はキロ4分で走るまでに復活している。それでも、競技者としてトップ争いをすることはもうできない。トレイルランニングの競技年齢は他の競技と比べて高く、真剣勝負の世界から、怪我によって強制退場を余儀なくされた事実を、どう受け止めているだろう。
「あの第一線の雰囲気、トップ争いの駆け引きが堪らないわけです。一緒に走る人たちのキャラクターによって雰囲気も変わるし、その場にいなければ感じられない面白さがあるから。そこから退かなければいけなくなったのはつらいです。だいぶ動けるようになってきて、海外からレースに招待してもらっても、もうトップ争いはできずに、ファン・ランになってしまう。自分との争いはできても、相手との争いはできないのが、ちょっと残念ですよね。まあ、でもしょうがない。受け止めなきゃいけないんですよね、こういう身体なので。ただ、その時の面白さを知っているから、悪あがきじゃないですけど、それに近いものを何か求めたい。ある程度速いスピードで、どこまで走れるのか。また元に戻すことが、今の自分にとっては魅力的なことかな」
人工股関節の手術をして、その後にしっかりとしたトレーニングを行い、石川ほどの強度でトレイルランニングを続けた症例は他にない。一般的な日常生活では、人工股関節の寿命は30年ほどと言われているが、果たして石川の場合はどれほど保つのだろう? 今までずっとそうだったように、新しい道を切り拓いていくことになる。
「今の状態を思うと、2017年に股関節に痛みが出てから6〜7年間は無駄にしてしまったので、それを取り戻すというか。もっと早く手術をしていればよかった。僕にとっては5年間しっかり走れるんだったら、手術する価値はあるから。でも、あんなこともこんなすごいこともできなくなってしまって、暇はないはずなのに、のんびりしている自分がいる。新しい自分が”丸み”しかないんです。それは何でしょうね? かつては毎朝20キロ確実に走っていて、義務のように思っていた時期もあったんです。でも今は、ちょっとした空き時間に3キロ走って汗かいて帰ってくるだけでもすごい達成感が得られる。以前だったら走ったうちに入らない距離なのに、でも本当に、ああ気持ちよかったと思える自分がいるんです」
客観的に見ればキャリア終盤での手術は、選手生命の終わりと捉えられるが、果たして自然の中で遊ぶスポーツにゴールはあるのだろうか? 子どもの時に何も考えない無垢な存在として山の中を走ったように、もう一度、初めてのようにトレイルを走っている。石川は、再び走るという行為の根源に立った。それは「幸せ」な日々の始まりのように思える。
それからパイオニアらしく「これは必ず伝えておかないと」と前置きをして、自分の症状は先天的な臼蓋形成不全のために手術したのであって、「トレイルランナーが走りすぎると人工股関節が必要になるわけではないですから」と言った。
Profile
石川弘樹
1975年神奈川県生まれ。日本初のプロ・トレイルランナー。大学在学中にアドベンチャー・レースのチーム〈EAST WIND〉に参加。独立後、トレイルランナーとして、アメリカのほか、メキシコ、ネパールなど世界中のウルトラ・レースに参戦している。2007年にはアメリカの歴史ある4つの100マイルレースの合計タイムで争われる〈Grand Slam of Ultrarunning〉で優勝を果たす。〈信越五岳トレイルランニングレース〉などのプロデュースも行なっている。イヌワシの生息環境を復活させるために南三陸でトレイル整備の活動を映したフィルム『共生のために走る』がある。