山本華歩(パルクール)「思ったときに、思った通りの動きができるかを追求していく」

18歳から始めて世界2位まで上り詰めた。ひたむきに何度も動きを繰り返す日々。山本華歩にとってそれが一番楽しい時間だった。(雑誌『Tarzan』の人気連載「Here Comes Tarzan」、No.849〈2023年1月26日発売〉より全文掲載)

取材・文/鈴木一朗 撮影/吉松伸太郎

初出『Tarzan』No.849・2023年1月26日発売

山本華歩
Profile

山本華歩(やまもと・はなほ)/1990年生まれ。158.9cm、48kg。18歳よりパルクールを始める。2018年、Asian Parkour Championships(アジア大会)フリースタイルで優勝。2019年、第1回パルクール日本選手権スピードランで優勝、フリースタイルで2位。2022年、第1回パルクール世界選手権フリースタイルで2位に入る。

念願の世界選手権で2位に入賞。

パルクールをご存じだろうか。

走る、跳ぶ、登るといった人間の移動に重点を置く動作を追求するアーバンスポーツの一つとして、ヨーロッパでは人気が高い。2022年10月、その世界選手権が日本で初開催された。

大会では障害物を乗り越えてコースを走り、そのタイムを競う“スピードラン”と、障害物を独自の発想で自由に使い、技の難度や構成力を競う“フリースタイル”の2種目が行われ、日本の山本華歩がフリースタイルで銀メダルを獲得した。

彼女にとっては待ちかねた大会だった。

「2019年に第1回の日本選手権があって、そこで私はスピードランで優勝して、フリースタイルは2位だったんです。これで、世界選手権の代表の座を得たのですが、そのあと新型コロナで大会が延期、中止なんてことになってしまった。

ようやく今回開催されて、2位に食い込むことができたのは、私にとってはとても素晴らしい出来事でした」

大柄な選手も多いなか、山本は160cmに満たない身長だ。

フリースタイルでは“見せる”ことが、ひとつ重要視される。豪快で大きな技を決めることが勝敗を大きく左右する。勝因はどこにあったのか。

「フリースタイルでは、ジャッジは技の難易度と、安全面の2つの要素があるんです。今回、上位5人のうち私は難易度では一番下だった。でも、安全面では2番目で、これで点数が取れたんですね。

とにかく、技を失敗しない。余分なステップをすることなく最後まで通せたことが一番の勝因だったと思います」

200%できるという動きしかやらない。

ユーチューブなどで検索すれば、パルクールの映像は多く見ることができる。ビルの屋上から屋上へ飛び移ったり、橋の欄干へとジャンプして、そこから飛び降りたり。その映像だけ見ると、“過激!”と思う人もいるだろう。

でも、実際は過激でも何でもないのだ。パルクールは本来、競い合うスポーツですらない。 もともとはフランスで生まれた軍隊式トレーニングで、身体能力を高めることにより自衛できるカラダを作ることが目的だった。

山本もパルクールをやって得することは?という質問を受けると「とりあえず逃げられるよって答えます」と笑う。

誰かに襲われそうになったとき、軽々と壁を乗り越え、反対側に消える。もしかしたら、これがパルクールの真骨頂かもしれない。そのために、ダイナミックな動きに加えて、正確さも重要な要素になってくるのだ。

「私が考えているパルクールは、自分がイメージした通りにカラダを動かせるようになるということ。だから、階段を1段飛ばしで上ったり、下りたりするのも、ある意味パルクールなんです。

ジャンプして、ここに着地する。そう思ったときに、思った通りの動きができるかを追求していく。自分の可能性を広げていけるのがパルクールの一番の魅力です。私も昔できなかった動きが、今はできるようになっている。

大切なのは、自分ができる範囲内で少しずつ極めていくということ。無理をしたらケガに繫がりますからね。だから、過激に見えても、危ないことは一つもやっていない。私も100%できる、なんなら200%できるという動きしかやらないです。

皆さんにとっては、水たまりを飛び越えるぐらいの感覚かも。段階を踏んで練習してきたから、今があると思っています」

始めたときには、大会もなかった。

18歳のときにダイエット目的でランニングを始める。でも、単調な動きにすぐ飽きてしまう。そのとき、ネットサーフィンで出合ったのがパルクールだった。

当時、山本の地元・名古屋で5~6人ほどがパルクールをやっていて、その映像をたまたま探し当てて見ることができた。

「シューズと障害物さえあればできる。学生でお金がなかったから、面白そうだなと思ったんです。その人たちが開催するオフ会に参加したのが始まりでした。

ただ、思い返すと小さいころから家の柱にしがみついて登ったりしてたので、もともとそういうのが好きだったんですね」

当時は壁を登ったり、高いところからジャンプしたりと、単純な動作を繰り返していた。

最初は2か月に1回、仲間が集まっての練習だった。だが、仲間のうちの何人かが、月に1回を提案して集うようになる。その中で、週に1回と言う人が出てくる。さらには、週末の2日間はどう、と誘ってくる人がいる。

練習回数が増えるにつれ、集う人数は減り、精鋭化されていく。そのなかで揉まれるうちに山本は実力をつけていく。

「私が始めたときは、大会もなかったから、何の目標もありませんでした。昔できなかったことができるようになる。これだけが楽しかった。

だから、他の人がパルクール以外に楽しみを見つけたり、会社に入って練習時間が取れなくなったりしていましたが、私は就職してからも、必ず週末は練習していたんですね」

2012年、山本は一般企業に就職する。このころ日本では、まだパルクールの認知度は低かった。だが、彼女が働いている間に人気に火がつき、メディアやSNSで取り上げられていくようになる。

入社5年目、山本は大きな決断を下す。パルクールで生きていこう、と。ADAPT(パルクールの国際指導資格)を取得するために、退社して韓国へと渡ったのだ。そして、日本人女性で初のパルクールコーチとなった。

大人の女性たちに、もっと知ってもらいたい。

「数え切れないぐらいの生徒さんがいます」。

現在、山本は平日には夕方から指導を行い、週末にもパルクール指導のサポートをこなしている。パルクールの日本での人気は、どんどん高まっているのだ。

「東京・池袋のニシイケバレイという場所で教えていますが、昨年馬込にパルクール馬込スタジオというパルクール専門のジムがオープンしました。そこで指導するのも今は楽しいです。

ヨーロッパではパルクール専用のパークがたくさんあって多くの人がやっているのですが、日本ではまだそこまで行っていない。できる場所が増えればと思っています」

ただ、人に教えるぶん、自分のための練習の時間が必然的に少なくなる。

山本は仲間と一緒に練習するが、それは動きを動画に撮ってもらうため。互いに撮り合って、脚の位置、関節の角度、カラダの向きといった細かいポイントを確認して、改善しつつ繰り返すのだ。

これが週1、2回4時間ほど。そして、練習量を補うのが、ジムでのトレーニングなのだ。

「ボックスを使ってのジャンプや幅跳び。ウェイトトレーニングも2年ほど前から始めました。私は脚がまだ弱いと思っているので、スクワットやデッドリフトなど下半身を中心に。

これから先は、フリースタイルでは勝てなくなる。私が勤めていた5年間でパルクールの人気が高まり、そこで育った子が今出てきていますから。技の難度ではかなわない。だからパワーで勝負できるスピードラン。それで、脚や体幹が重要なんです」

取材に伺った日の練習メニュー

まずは入念にストレッチを行う。ケガを防止するためだ。1.8mほどの壁の上に立って、1.5m前方の壁へとジャンプ。拇趾球からピタリと着地して半歩もズレないのがすごい。

壁の上に立てば視線は高さ3m以上になるし、普通の人は絶対に飛び出せないだろう。他にも、1mほど先にある手すりに飛び移り、最後は1.5mほど下にある地面に着地して受け身。できなかったことができるようになるのだ。

競技者として、そして指導者として、山本は日本でのパルクールの将来をどのように思い描いているのか。

「今、キッズにはすごい人気で、教室の予約が数分で埋まるほど。ですが、大人のとくに女性にもっと知ってもらいたい。私も18歳で始めたし、パルクールは誰でもできるんです。できる範囲でやればいいんですから。

それに、パルクールはどんなスポーツにも応用が利く。一番のベースになる。だって、常に人間の基本的な動作を追求しているんですから」

“今、教えている子供たちは将来のライバルですね”、そう尋ねると「4歳、5歳から始めている子が大会に出てくるので、大変だけど楽しみです」と、山本は笑って答えた。