小説家・三島由紀夫はなぜ、30歳からカラダを鍛えたのか?
30歳でカラダを鍛え始めた小説家・三島由紀夫。筋肉はやがて、彼の文学と思想にも深く入り込んでいく。
text: Kenji Inoue photo: Shintaro Yoshimatsu, Kodansha/アフロ
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教えてくれた人
井上隆史(いのうえ・たかし)/白百合女子大学文学部教授。専門は日本近代文学。『暴流の人 三島由紀夫』で読売文学賞・やまなし文学賞受賞。三島文学研究をリードし、近著に『三島由紀夫を誰も知らない』。生誕100周年に当たる2025年に開催された三島の展覧会では実行委員長を務めた。
「私の自我を家屋とすると、私の肉体はこれをとりまく果樹園のやうなものであつた。私はその果樹園をみごとに耕すこともできたし、又野草の生ひ茂るままに放置することもできた。」
─中略─
「あるとき思ひついて、私はその果樹園をせつせと耕しはじめた。使はれたのは太陽と鉄とであつた。たえざる日光と、鉄の鋤鍬が、私の農耕のもつとも大切な二つの要素になつた。さうして果樹園が徐々に実を結ぶにつれ、肉体といふものが私の思考の大きな部分を占めるにいたつた。」
『太陽と鉄』より
鍛錬と文学、その深いつながり。
サンフランシスコ講和条約が発効して戦後日本の主権が回復し、白井義男が日本人初のボクシング世界チャンピオンになった昭和27年、日本で最初のボディビル大会が開催された。昭和30年にはテレビ番組をきっかけにボディビルブームが起こる。その渦中で筋肉を鍛え始めた一人の男がいた。当時30歳だった三島由紀夫だ。
代表作『金閣寺』が出るのは翌昭和31年。絶頂期を迎えつつある直前に、なぜ鍛え始めたのか。三島文学研究をリードする井上隆史さんは、彼のトレーニングとの向き合い方は、3つのステップを経て成熟すると指摘する。

「小さい頃からカラダが弱かったんですね。胃はしょっちゅう痛くなるし、風邪もひきやすい。やっぱり鍛えなきゃならないと、まず考えたのでしょう。さらに昭和30年代に出版社系の週刊誌が相次いで創刊されて、グラビアが注目を浴びる。映画も戦後の黄金期の只中でした。そうしたメディアで鍛えたカラダを披露して話題になりたい、チヤホヤされたいという気持ちも出てきたのでしょう」
第3ステップはなかなか哲学的。インターフェイス(接点)として筋肉を自覚した段階である。
「三島は幼少から虚弱だったから、テクスト(言葉)で物語を紡ぐことばかりしてきた。テクストも他者と自分、意識と無意識をつなぐインターフェイスですが、そこに流れているのは、生も死もない偽の時間だと三島は考えたんです。そのことに疑問を持ち、鍛えているうち、筋肉というインターフェイスを介したやり取りの重要性に気づいた。肉体には生と死があり、鍛えないと衰えていく。傷つくと血が流れる肉体を持ち、偶然生まれていずれ死ぬ人間固有の時間を生きる者同士が、生身で交流するからこそ、生と死がはっきり感じられる。そして意識と無意識、生と死の境界に筋肉があるなら、どこまで鍛えたらそれを越境できるかを考え始める。それが最終的にはあの結末を招く。いずれにしても“三島は鍛えた筋肉を見せたいだけのただのナルシシストだ”という見方は当たらない」
SNSとAIが隆盛し、テクストだけのデジタルな時間を生きるようになった現代では、生身のコミュニケーションの欠如が問題視される。三島は一流の文学者らしい鋭い洞察で、半世紀以上前にその危うさを見抜いたのだろう。

では、鍛えることで三島文学には何か変化があったのだろうか。
「あったと思いますね。三島は当初、自然に流れるように降りてくる言葉で書いていた。それも大切だけど、降りてくる言葉だけでは長編小説は書けない。ストーリーをどう構築するか、文章の贅肉を削っていかに磨き、どのような比喩を用いるかという点に関して、三島は極めて意識的な人間だった。それは、どこの筋肉を鍛えて何を削ぎ落とすかを自覚的に決めて行うトレーニングにも通じる。鍛えるうちにその傾向が一層強くなり、より硬派で隙のない文体になったと感じますね」
ボディビルは欧州で生まれて、アメリカで大衆化する。戦後、アメリカ文化を無条件に受け入れた日本に対して批判的だった三島が、ボディビルにハマるのは矛盾しているようにも思える。
「三島は“日本は空っぽだ”と言うんですね。教会なら扉を開けて中に入るでしょう。でも鳥居には扉なんかない。その先へ入っていっても、御神体が山だったりする。そもそも漢字だって中国からの輸入品です。もともと何もない真空の入れ物だから、いろいろなモノが入ってきやすい。その意味では、アメリカ発のボディビルを取り入れるのも日本的。彼は舶来品を愛し、西部劇に出てくる金持ちの悪者が住んでいるような家で暮らした。アメリカナイズされたモノの楽しさを知り、ディズニーランドも好きだった一方、空っぽなのに“空っぽじゃない”と思い込む風潮は嫌いだったのです」
日本の高度経済成長が頂点に達し、大阪万博が開催された昭和45年、大作『豊饒の海』を書き上げた直後、45歳で衝撃的な割腹自殺を果たす。その際「文士としてではなく、武士として死にたいと思つてゐました」という言葉を残す。
「文化は、文と武がせめぎ合うダイナミズムから生まれる。日本には平安朝時代から続く文があり、武家社会に確立された武があるのに、敗戦後は武が抜け落ちて文ばかりになる。その動きを象徴するように三島を含めて日本文学がどんどん海外で翻訳出版され、昭和43年には川端康成がノーベル文学賞を獲ります。武を締め出すのは冷戦期のアメリカの極東政策の一環でしたが、それは違うんじゃないかという気持ちが三島にあった。むろん筋肉の鍛錬もまた武の延長線上にあったでしょう。ただ“武士として死ぬ”という言葉をその通りに受け取る必要はない。三島作品を文と武のせめぎ合いとして読み直す試みが、残された世代に求められるのだと思います」
