距離280km、累積標高19300m、3泊4日。甲斐国ロングトレイルを本気で走る。

望月将悟、山本健一、鈴木博子という、トレラン界におけるレジェンドたちが甲府盆地を取り囲む山々を繋いだ280kmを人知れず走った。彼らはなぜ、レースでもなく、最速記録に挑むFKTでもなく、ロングトレイルを走るのか。

text: Toshiya Muraoka photo: Doryu Takebe, Sho Fujimaki

レジェンドたちの悪あがき。

「私、すごくない? 本当に頑張ってる」。

山梨県南アルプス市、芦安集落に設置した夜叉神峠近くのエイドステーションで、鈴木博子は夜食を食べながら自分に言い聞かせていた。およそ280km。甲府盆地を取り囲む山々をぐるりと一周する「甲斐国ロングトレイル」への挑戦は、すでに3日目の夜を迎えていた。鈴木にとっては、10年以上前に走った330kmの山岳レース、トルデジアン以来の超ロングコースと言う。

キャンピングカーのボックス席の向かい側で、このコースを繋いだ山梨県韮崎市出身の山本健一も少し浮腫んだ顔で笑う。「もう二人についていくのが必死です。速いから。絶対に置いていかれないってわかってるのに、心配になるくらい(笑)」と充実した表情を見せた。山本は、膝の軟骨損傷のために大腿骨の骨切り術という大手術を行なってから初めての本気のランだった。

いつも穏やかで余裕があるように見える望月将悟も「こんなに追い込んで疲労しているのは、TJAR以来かも」と静かに言った。日本一過酷な山岳レースと言われるトランスアルプスジャパンレース(TJAR)は、富山湾から日本アルプスを踏破し、駿河湾まで至るおよそ415kmのレースで、望月は四連覇後の2018年に無補給での完走を果たしている。

山岳レース、あるいはトレイルランニングの世界で一時代を築いたレジェンドたちが、レースでもないのに真剣に走っている。むしろレースでも、そのコースの最速記録を目指すFKTでもないから、自分たちの探求のために走ることができているのかもしれない。

レジェンドたちは、280kmという壮大な旅でも、テンションを上げて叫んだり、泣いたりしない。淡々と走る姿に、スポーツの枠では括れないトレランの本質を思い出す。鈴木博子は言った。「あちこち痛いのは当たり前だから。それに関してはもう諦めてる」

山を走ることによって、自分と向き合わざるを得ない。それはもうよく知っている。肉体的なピークを過ぎているからこそ、味わうことのできる濃密さがある。

日本一長い名前を持つ山・牛奥ノ雁ヶ腹摺山を富士山を向いて走る。

キャンピングカーを利用し、快適な2時間の仮眠。

初日の夜、疲労した鈴木博子。ここから強さを発揮する。

雲海の稜線、曇天の下。静かな山なみを走る。

初日に2時間、2日目に4時間、最終日には3時間ほどの仮睡眠を取って、3人は再び山へと入っていった。「寝ると、回復するよね」という当たり前の事実が、旅の間には深く沁みるという。

夜叉神峠から鳳凰三山へと向かった早朝は曇っていて「標高を上げれば雲の上に出るかもね」と話しながら尾根道を登っていった。先頭を歩いていた望月が、後ろを振り返りポツリと「雲海」と言った。後に続く山本と鈴木は、その風景を見て思わず声が出た。

眼下には雲海、しかし頭の上にも雲がある。雲と雲に挟まれて、山の稜線がずっと続いている。風もなく、気温も下界にいたよりも暖かかった。不思議と静かで、今までに、もう数えきれないほど走ってきた地元の山本にとっても初めての風景だった。山はいつも違う表情で迎えてくれる。それもまた当たり前のこと。だが、挑戦へのご褒美のように思えて、祝福されている気持ちになった。

鳳凰三山へと向かう途中の稜線から、曇天の雲海。

「山で速く走ることが全てではないと思うんです。僕は山からいろんな力や気づきをもらってきた人間ですし、それを多くの人に共有できたらと思っているんですね。みんなも山で同じ体験ができるよ、と。今回は3人で走って、それぞれペースが違うわけです。自分が休みたい時に、他の二人がそうではないこともある。でも、その難しさ、大変さこそが自分の収穫なんですよね」

無事に完走し、韮崎にある旭温泉に入って一息ついたあと、望月は、こう語った。かつてTJARに出場していた時期には、一人で完結する挑戦を好んで追求してきたが、近年は山本と一緒にトレーニングをすることが増え、「誰かと一緒に走った方が楽しいと思うようになった」と言う。

「自分でやっていても、自分だけしかわからないんですよ。大変さや喜びも一人分しかない。でも、誰かと一緒に走っていると可能性が広がっていきますよね。こんなに楽しいことがあったのかって。今回もとても楽しかった。年齢が上がるにつれて、やっぱり走り続ける難しさはあるんです。体も、それから気持ちも維持していかなければいけないから。今は、ロングトレイルを仲間と走ることに自分は魅力を感じていて、それが走り続けるモチベーションにもなっていますね」

一人を探求してきたからこそ、分かち合う喜びを知る。「雲海」と静かに呟いたのは、後から来る二人の驚きを奪いたくなかったからだ。望月の優しさもまた、山が教えてくれたもの。

日蓮宗の総本山、久遠寺へ続く287段の菩提梯。甲斐国ロングトレイルは、山梨の文化に触れる旅でもある。

鳳凰山へと向かう2520m地点、苺平は雲の中だった。

観音岳の山頂付近。絶景をしばし楽しむ。

青木鉱泉へと降るドンドコ沢。大きな岩が続く。

久しぶりに本気で走りたかった。

甲斐国ロングトレイルは、山本の高校時代の先輩で、山岳カメラマンの平賀淳が起草したプロジェクトだった。山岳の取材を長く続けてきた平賀が、山に囲まれた地元・山梨の素晴らしさを多くの人と共有したいと考えた。その思いに共感した山本がコロナ禍にルートを繋ぎ、仲間のトレイルランナーたちを年に一度、招待するようになった。

そのイベントは一歩一歩を指す造語「PASaPASA」と、2022年にアラスカでの取材中に亡くなった平賀の名を冠につけ「甲斐国ロングトレイルPASaPASA HIRAGA JUN CUP」と呼ばれている。

昨年からは一般ランナーを募集し、全長280kmのコースを5日間で走るイベントとして開催している。険しい山々を走り、里に降りてきて温泉に入り、地元の食材を食べる。山梨の豊かさは、山へと入らなければわからない。ロングトレイルは、そのまま土地を味わう旅だった。

グループランで山梨の魅力を共に味わうことも楽しいが、次第に山本と望月の中に、思い切り走ってみたいという気持ちが湧いてくる。日常のトレーニングの場でもある甲斐国ロングトレイルを本気で走ったら、自分たちはどんな状態になり、どんな気持ちになるのか。それが知りたかった。山本は言う。

「PASaPASAの時には2日間に分けている区間を一日で走るわけですから、まあ、きつかった(笑)。でも、脚を手術して以来ずっとリハビリを続けてきて、今の自分のコンディションでも、ハードな楽しみ方ができることがわかりました。僕は常に、苦しさと楽しさが必ずセットで欲しいんです。一緒に走った望月さんも博子さんも、それからサポートしてくれたメンバーも10年以上前から一緒に走っている仲間です。彼らと一緒に、かつて海外レースによく参戦していた頃と同じように、本気で楽しむことができた。それが何より、嬉しかった。確かに海外レースによく出ていた当時と比べたら、パフォーマンスは越えられないです、絶対。どんなにコンディションが上がったとしても、年齢もあるから、遅くなっています。でも、満足度とか達成感みたいなものは、まだまだ上げられると思う。自己肯定感みたいなものは、もしかしたら今の方が強く持てるんじゃないかな」
  
肉体的なピークはとうに過ぎた。慢性的な故障もある。まして手術の後には、また一から積み上げていくしかなかった。山本は初日の積雪帯で、雪を踏み抜いて、リハビリでも曲げていなかったほど強く膝を曲げてしまったという。アクシデントはいくらでもあり、鈴木が言うように「あちこち痛いのは当たり前」。けれど、走ることの幸福は、自分の身体能力の減退さえ養分になるのかもしれない。悪あがきをしながら今を噛み締め、走る。まして、亡き先輩の思いを胸に自分たちで繋いだルートを走るとしたら。レジェンドたちの遊びは、淡々としていながらも、とても奥行きがある。鈴木は言う。

「私がいない方が、二人の力が発揮できるんじゃないかっていう思いは、ゴールした今でも思っています。やっぱり男女の差があるから、私が走ることで彼らのスタイルが変わってしまう部分はありますよね。でも、せっかく来たから、できることはやろうと思って走ったんです。もしできなかったら、その時に考えればいい。とりあえず行こうって」

望月と山本が二人で走るのではなく、なぜ鈴木を誘ったのか、この言葉だけでもわかる気がする。素直に今を楽しむことができる能力は、誰もが持ち合わせているわけではない。

「やっぱり甲斐国ロングトレイルは、すごいコースでした。もう4年間かな、毎年走っているのに、違うものが見えました。同じ距離なのにすごく長かったり険しかったり。でもそれって私のコンディションなんですよね。感じる距離感は、もう外的要素じゃなくて、すべて内的要素。自分が自然に投影される。だからね、やってみないとわからないんですよ」

走力の差を揃えることは難しくとも、旅の間には足を痛めたり、疲労で速度が落ちたり。4日目には3人それぞれがダメージを抱えていて、自然と順番に先頭が入れ替わり、引っ張り合ったという。一人で自分と向き合いながら走るのではなく、10数年来の友と共に、積み重ねてきたもの共有しながらの280km。

「今やりたかったことを、好きな人たちとやったんです」と山本は言った。

Profile

望月将悟(もちづき・しょうご)/静岡市消防局に勤務し、山岳救助隊としても活動。トランスジャパンアルプスレース4連覇ほか。

山本健一(やまもと・けんいち)/山梨県韮崎市出身。フルマークス所属プロマウンテンアスリート。グランレイド・ピレネー優勝ほか、海外レースにも多数参戦。

鈴木博子(すずき・ひろこ)/2年連続トルデジアン入賞ほか、国内外のレースに参戦。優勝多数。3人の中では最年長、2児の母。